米海兵隊岩国航空基地 -- 戦争は恐ろしい。家族は引き裂かれ、恋人同士は離れ離れになる。兵士は殺されるか、捕虜として捕らわれる。広島県尾道市で4月15日、関係者が出席する中、戦争捕虜慰霊碑の移設と除幕式が行われた。この慰霊碑は、戦時中に広島捕虜収容所第4分所に収容されていた連合軍捕虜への敬意を表して作られた。
尾道市中心部の繁華街の対岸にある向島町に「エブリイ」というスーパーマーケットがある。その壁の外側には、広島捕虜収容所第4分所の記念碑が静かに建っている。このスーパーが現在建っている場所は、かつて捕虜収容所として使われていた。
『過去を記憶に留めることができないものは、余儀なくそれを繰り返すことになる。』と格言にあるように、自分自身を理解し、人として成長するには、過ちから学ぶ以外にない。
「先人や尊い犠牲を払った隊員が永眠する追悼の場所を、我々は今後も継続的に訪問し、決して忘れない。」と話すのは、岩国基地司令のジェームズ・スチュワート大佐。「今日の式典は、第二次世界大戦中に拘束され、窮乏に耐えた兵士に対する、すべての国の追悼を表わしている。」
慰霊碑が建てられた場所は、かつて広島県御調(みつぎ)郡と呼ばれていた。1945年に戦争が終わるまで、200名以上の連合国軍兵士が造船場で物資を運ぶ労働に従事していた。
兵士の多くは「ヘルシップ(戦争中に捕虜などを輸送した船のこと。船内のひどい待遇環境から"ヘル(地獄)"と呼ばれた。)」で日本に連れてこられた。第4分所には、1942年11月に大日丸で100名のイギリス空軍兵士が、1944年9月にフィリピンから能登丸で100名の米軍兵士が連行された。この200名のうち、24名が過酷な労働と非人道的な扱いや状況のために死亡した。死亡した24名の中の一人が、米陸軍のジョージ・スコット一等兵。スコット一等兵は負傷が原因で1945年2月13日に死亡した。新しく10名の捕虜が連行された1945年8月8日、日本海沖50マイル(約80キロメートル)の地点に米軍のB-29爆撃機が墜落した。戦争が終わると、生存していた捕虜は全員、母国へ送還された。
式典は「アメイジング・グレイス」のギター演奏で始まった。続いて「尾道赤レンガの会」と「日英米友好のモニュメントの会」の世話人である南沢満雄さんによる挨拶、キリスト教と仏教の祈りが奉げられた。慰霊碑が除幕されると、碑の台座には花束が献花され、来賓挨拶、向島中央小学校児童による合唱が披露された。
この式典は、戦没犠牲者への理解を将来の世代へと引き継いでいくことを重視していた。
平谷祐宏尾道市長は、「今日の除幕式から、この慰霊碑が平和と友好のシンボルとなり、日米の友情が発展していくことを切に願います。」と話した。「恒久的な平和への願いが、将来の世代に受け継がれることを心から願っています。」
慰霊碑の一つにはイギリス軍の部隊名が刻まれている。星条旗、ユニオンジャック、日の丸が頭上で風にはためきながら、犠牲者の慰霊碑を静かに見守っている。これらの国旗は、恒久平和を実現するために日英米が協力関係を継続していくことを表わしている。
「激しい戦争で戦ったすべての国の人たちを記憶に留めておくことは、重要なことだ。」とスチュワート大佐。「この慰霊碑は、彼らの偉大なる犠牲と世界平和への願いを忘れないために建っている。日英米は現在、最強かつ最重要な安全保障同盟を形成している。」
終戦からおよそ70年たった今、日英米の代表者は内省し続けている。戦争の放棄、安全保障同盟の継続、そしてこのような慰霊碑が二度と必要とされないことを願い続けながら。
写真1:4月15日、広島県尾道市の戦争捕虜収容所跡地で行われた慰霊碑除幕式で、慰霊碑に花を手向ける、岩国基地司令ジェームズ・スチュワート大佐、サイモン・フィッシャー英国総領事、向島中央小学校4年生の大出葵意さん。
写真2:4月15日、広島県尾道市の戦争捕虜収容所跡地で行われた慰霊碑除幕式で、収容所に収容されていた英米軍部隊の慰霊碑にお経を上げる、尾道観光協会理事の加藤慈然住職。
写真3:4月15日、広島県尾道市の戦争捕虜収容所跡地で行われた慰霊碑除幕式で、収容所に収容されていた英米軍部隊の慰霊碑にお経を上げる、尾道観光協会理事の加藤慈然住職と二人の僧侶。
写真4:4月15日、広島県尾道市の戦争捕虜収容所跡地で行われた慰霊碑除幕式で祈りを唱える、日本キリスト教団尾道吉和伝道所の島田好国牧師。