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Gifts are left on a monument to fallen Americans by members of the Fujinowaki Neighborhood Association after the 80th anniversary of the Marukoyama Memorial Ceremony in Kure City, Hiroshima Prefecture, Japan, April. 3, 2025. The Marukoyama Memorial Ceremony is held every year in Kure during cherry blossom season to honor the crew members of the U.S. Navy TBM-3 Avenger, Torpedo Squadron 6, who died in Kure City, Hiroshima Prefecture, Japan, on July 24, 1945. (U.S. Marine Corps photo by Sgt. Randall Whiteman)

Photo by Sgt. Randall Whiteman

丸子山慰霊祭:80年の回顧、癒し、そして友情を讃えて

14 Apr 2025 | ランドール・ホワイトマン三等軍曹 Marine Corps Air Station Iwakuni-Japanese

米海兵隊岩国航空基地の米海兵隊員と海軍兵が4月3日、 広島県呉市の住民と共に、第二次世界大戦中の悲劇的な航空機墜落事故から80周年を迎える追悼式典に参加した。式典では、その後、和解と共有された人間性の象徴となった歴史的な出来事を追悼した。

1945年7月24日、米海軍空母ハンコック(CV-19)から発進した第6雷撃飛行隊(VT-6)のTBM-3アヴェンジャーが、呉市周辺を攻撃中に撃墜された。この航空機は住宅地に墜落し、4人の民間人が犠牲となり、十数軒の家屋が破壊された。搭乗していた3人の乗組員のうち、1人は墜落時に死亡、もう1人はパラシュート降下後に命を落とし、3人目は山中で約2週間生き延びた後に捕虜となった。

墜落直後、地域住民は悲しみと怒りに包まれた。家屋の破壊と4人の近隣住民の死は、墜落したアメリカ人乗組員への憤りを助長した。残骸から乗組員の遺体を発見したとき、一部の住民は報復として、乗組員の遺体に対して怒りをぶつけ始めた。

これを見た、当時この地域の区長だった古川嘉造さんが介入した。この墜落事故の7か月前、旧日本陸軍兵だった息子をニューブリテン島で亡くしていた古川さんは、住民に強い口調で言った。

「そんなことをしてはいけない。パイロットには罪はない」

古川さんは、亡くなった若いアメリカ兵も自分の息子と同様、戦争の犠牲者であり、故郷から遠く離れ、命令に従い、そして今は家族に二度と会えなくなったと考えていた。古川さんの言葉と行動は地域住民を落ち着かせ、怒りではなく思いやりへと彼らの気持ちを導いた。

事故が起きたその日、古川さんはアメリカ人乗組員の遺体を収容し、自分の農地に丁重に埋葬した。古川さんは自分の息子と同じように、この男性にも待っている家族がいる、二度と息子を家に迎えることができない家族がいると考えていた。

「亡くなったアメリカ兵にも親や兄弟姉妹がいるはずだ。敵であろうと味方であろうと関係ない。」と古川さんは話した。

古川さん自身もさらに深い悲劇を経験した。墜落事故から数週間後の8月6日、当時15歳だった古川さんの娘が広島への原爆投下の際に行方不明となり、その娘を必死に探した彼の妻も、後に放射線被曝により亡くなった。

これらの悲劇にもかかわらず、古川さんは恨みや憎しみではなく、平和と尊厳の道を選択した。

1951年に日米平和条約が締結され、第二次世界大戦が正式に終結すると、古川さんは墜落現場から東へ700メートルの丸子山という小さな丘の上に大きな慰霊碑を建て、家族の死を悼んだ。妻、息子、娘への追悼とともに、「米空軍勇士之碑」という漢字が刻まれた1.5メートルほどの十字型墓石をアメリカ人乗組員のために設置した。

この場所は、許し、相互尊重、そして戦争の人的代償を静かに物語る証となった。古川さんは数十年にわたり、丸子山の慰霊碑と道を管理していたが、彼の死後、この場所は徐々に荒廃し、その物語は忘れ去られようとしていた。

2006年、地元の藤脇自治会がボランティアとして慰霊碑の保存に乗り出した。それ以来、自治会は道を整備し、草木を刈り取り、訪問者や毎年の式典のために場所を利用できるよう維持してきた。

墜落事故が発生したのは7月だが、追悼式は桜の季節である4月3日に毎年行われている。桜の季節は、再生と希望の象徴的な時期である。丘の斜面が満開の桜で彩られる中、式典の参列者は、失ったものへの追悼だけでなく、平和、回復力、そして追悼の力について深く考えを巡らせる。

今年の式典は、墜落事故から80年を迎えるだけでなく、岩国基地の米海兵隊員と海軍兵が呉を訪れて式典に参加し、地域の日本人市民と共に花を手向け、祈りを捧げ、共に考える時間を持つ、特別に意義深いものとなった。この式典に日本人とアメリカ人が参加することは単なる象徴的なものにとどまらず、かつて世界的な紛争で対立していた二国間の深い友情を再確認する意味をもつものであった。

亡くなったアメリカ人乗組員と日本人市民を追悼しながら、参列者は古川さんの並外れた思いやりにも敬意を表した。彼の遺産は文化的・歴史的な隔たりを越えて、私たち全員が持つ共有された人間性を思いださせてくれる。

この式典は、かつて日本とアメリカは戦争で対立していたが、今日では親密なパートナーであり信頼できる友人として、相互尊重と平和への共通の共通の誓いによって結ばれているということを力強く示すものとなった。

事故発生から80年後の今も、丸子山平和の碑「米空軍勇士之碑」は、過去を静かに振り返る場所であり、一人の日本人男性の共感、道徳的勇気、そして平和への信念の証として残っている。それは深い喪失の後でも癒しが可能であり、悲劇から理解と団結が生まれることを私たちに教えてくれる場所である。

丸子山平和の碑が捧げられた勇敢な戦士たちの名前は次の通り:
クラレンス・アーサー・ティージ米海軍中尉(ノースダコタ州)- 1920年3月16日生まれ、1945年7月24日没、1949年2月14日埋葬(ハワイ州パンチボウル)。
ルーサー・ポープ・ジョンソン・ジュニア米海軍三等掌砲兵曹(メイン州ポートランド)- 1925年/1926年10月生まれ、1945年7月24日撃墜。第二次世界大戦終結まで大船捕虜収容所に収容、2006年10月没。
ジャック・スペンサー・キーリー米海軍三等通信兵曹(ウィスコンシン州)- 1925年11月25日生まれ、1945年7月24日戦死と推定(ハワイ州行方不明者の碑に記載)。


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