米海兵隊岩国航空基地 -- 都会の喧騒(けんそう)から離れた山深い小さな農村、岐阜県東白川村。この村で、大切な宝物の帰りを心待ちにしていた、旧日本兵の家族がいる。戦争から決して帰ることのなかった兄の遺品を73年ぶりに受け取った安江さん一家である。
第二次世界大戦の退役米軍人、マービン・ストロンボさんはモンタナ州の静かな町から1万マイル(1万6千キロメートル)を旅して、日出づる国、日本へやってきた。その目的は、1944年6月のサイパン戦でストロンボさんが持ち帰った安江定男さんの日章旗を遺族に返すため。
第2海兵師団、第6海兵連隊の狙撃兵だったストロンボさんは退役後、何十年にもわたってこの日章旗を保管していた。ストロンボさんはこの旗を大切に扱い、サイパンでこの旗を持ち帰るときに安江さんと交わした約束を決して忘れることはなかった。
当時、若い伍長だったストロンボさんは、戦場で自分が部隊から離れ、敵陣の後ろにいることに気が付いた。部隊の結集地に戻ろうとしたとき、地上に倒れて動かない日本兵に遭遇した。
「定男さんに近づいて行った時のことを覚えています。」とストロンボさん。「あお向けに横たわっていて、少しだけ片方に傾いていました。目立った傷もなく、まるで眠っているようでした。胸のところから折りたたまれた日章旗の角が出ているのが見えました。近づいたとき、最初は旗をつかむことができませんでした。その旗が彼にとって大きな意味があるものだと知っていたからです。でも、もし、私が持ち帰らなければ、他の誰かが持っていくのもわかっていました。そうすればその旗は永遠に無くなってしまうでしょう。私は彼(定男さん)に向かって約束したのです。いつか、戦争が終わったら、この旗を返しに行くと。」
その後、何年もの月日が流れ、ストロンボさんは大切な宝物を返すという約束をかなえることができた。オレゴン州、アストリアにあるNPO団体「オボンソサイエティ」の存在を知るまでは、旗の持ち主の遺族を特定することは難しかった。
オボンソサイエティの協力により、ストロンボさんは定男さんの遺品を直接、安江さん一家に返す機会を得た。
定男さんの弟、安江辰也さんは「兄は将来のある若者だった」と話す。定男さんが招集されたとき、戦争から無事帰ってくることを祈って、この日章旗を定男さんに渡した。この旗が遺族のもとに返ることは、ただ、遺品が返る以上の意味がある。定男さんの魂が家に帰ってきたことと同じなのだ。
日章旗は、辰也さん、姉のフルタ・サヨコさん、妹の安江ミヤコさんが一緒に受け取った。辰也さんは「兄は私たち家族だけでなく、この地域にとっても大切な人でした。兄が出征する直前のことを今でも覚えています。」と話す。
辰也さんは、「私たち家族は兄に会うことが一度だけ許されたので、会いに行きました。」と話す。定男さんは住んでいた兵営から出てきて、草むらの上に座ってただ、話をした。残りあと5分となったとき、定男さんは辰也さんたちに向かって、「自分は太平洋のどこかに送られるようだ。恐らく帰ってこれないだろうから、両親のことを頼む。」と言ったという。それが辰也さんが定男さんと話した最後となった。
ストロンボさんは、定男さんの兄弟に日章旗を手渡したとき、サイパンの戦場で交わした約束をやっと果たせることができてほっとしたという。
日本人が故郷に帰省し、家族と一緒に過ごすお盆の時期だったため、再会はより意味深いものとなった。
ストロンボさんは定男さんと一緒に戦ったわけではないが、定男さんのことは自分の兄弟のように感じていたという。ふるさとを離れ、戦地で兵として戦った二人の若者。ストロンボさんは自分がアメリカの家族の元へ帰れたのと同じように、定男さんを家に連れて帰り、家族のもとに返してあげることは自分の義務だと感じていた。ストロンボさんは自分がした約束を守り、「誰一人、置き去りにはしない」という真の海兵隊精神を守り抜いた。